新学術領域「マイクロ精神病態」の目的と目標
領域代表
東京農業大学
応用生物科学部 教授
喜田 聡
我が国における精神疾患の生涯有病率は、うつ病や双極性障害を代表とする気分障害、また、心的外傷後ストレス障害(post traumatic stress disorders;PTSD)を代表とする不安障害ではそれぞれ約10%以上、統合失調症では約1%にも至ります。すなわち、この3つの精神疾患だけで生涯有病率は5人に1人の割合を超えています。また、メディアから発信される情報量の多さからも、精神疾患は非常に身近な病気であり、社会的な関心が極めて高いと言えます。しかし、精神疾患が発症するメカニズムは未だ明らかになっていないことが大きな課題になっています。しかも、これだけ有病率の多い病気であるにも関わらず、精神疾患は「気合いで治る」あるいは「躾(しつけ)や教育が悪かったため」と言われることも多く見受けられ、精神疾患が生物学的なメカニズムによる「病気」であることの社会的理解も進んでいないのが現実です。
精神疾患が国内五大疾患の一つと位置付けられた今、その克服が急務となっています。しかし、精神疾患研究は多くの課題や難題を抱えています。これを以下に列挙します。
(1) | 精神疾患の機構解明は、脳高次機能のメカニズムの理解を前提とする。従って、基礎から臨床に至る多段階の解析を必要とする高い難易度の生命科学の課題である。 |
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(2) | 精神疾患はゲノム要因(遺伝型)によってのみ発症するわけではない。ストレスや予想できないエピソード(例えば、震災や交通事故など)などの数値で表し難い環境要因との複合的要因により発症し、その発症機構は極めて複雑である。 |
(3) | 精神疾患研究領域では、ヒトを対象とする研究とモデル動物を対象とする研究との足並みが揃っておらず、連携は十分とは言えない。 |
(4) | 作業記憶の障害やプレパルス抑制の障害などの心理・生理・行動レベルの表現型であるエンドフェノタイプがヒトと動物を対象とする研究の接点となると期待されていたが、基礎研究の対象とするには限界があった。 |
(5) | 国内では、精神疾患研究は医学系研究機関の一部で行われているに過ぎず、臨床業務をも兼務する研究者(MD)の孤軍奮闘の上に成り立っており、基礎研究者(PhD)の層が薄い。 |
(6) | 回路・ニューロン・分子レベルの精神病態解析のためのヒト生体試料は死後脳が強力なツールとなっているものの、その収集は容易ではない。 |
以上のように、精神疾患研究には様々な問題が存在します。特に、精神疾患研究を基礎研究の対象として取り上げ難い大きな原因は、精神疾患特有の目で見える病態が同定されていないからに他なりません。一方、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性や細胞死などの病態が同定されており、これを手がかりにして、様々な基礎研究が行われています。
現在までの大規模なゲノム解析の結果、ゲノム解析のみ進めても、精神疾患の解明に繋がらないことが明らかになりつつあります。一方、先にも記したように、精神疾患にはアルツハイマー病やパーキンソン病に観察されるような、神経変性や細胞死が観察されないことは明らかです。以上の背景から、本領域では、精神疾患の病態は神経回路、回路内のニューロン、ニューロンを結ぶシナプス、さらに、細胞内の分子動態に存在すると予想し、分子動態・細胞・回路レベルで可視化された精神病態を「マイクロエンドフェノタイプ」と名付けました。本研究領域では、マイクロエンドフェノタイプを同定し、この分子基盤と病態機序の解明を進めます。
上述したように、精神疾患は極めて難易度の高い研究対象と言え、この研究進展には基礎から臨床に至る研究者の叡智の結集が不可欠です。一方、生活習慣病やガンの研究領域では医学、農学、工学、理学の学問領域の垣根を超えて多くの基礎研究者がその屋台骨を支えています。本領域では、マイクロエンドフェノタイプを共通概念とすることで、領域代表である私がそうであるように、PhDが臆すること無く、精神疾患研究に参入しやすい状況を作り出し、国内の精神疾患に携わる基礎研究者層を厚くすることを目指します。この実現に向けて、マイクロエンドフェノタイプは、精神疾患研究に従事してこなかった基礎研究者に対して、マイクロエンドフェノタイプを研究すれば精神疾患研究に貢献できることを伝えるメッセージとしての役目を果たすことになります。領域の活動を通して、多様な研究者が結集し、ヒトと動物を対象とする臨床研究と基礎研究が有機的に統合された精神疾患研究領域を国内に創出することを一番の目標として本領域が発足しました。